琉球ガラスといえば、強烈な赤をイメージする人も多いと思いますが、
昔は、赤は作れなかったそうです。
なぜなら、昔のガラスは、飲料などの空き瓶を利用した再生ガラスだったから。
再生ガラスでは、膨張率の関係から使える着色材が限られ
赤の再現は難しいそうです。
琉球ガラスは、明治の中頃にはじまったといわれ、
蠅取り瓶やランプのホヤなど、生活雑器を主に製造し
当時は、単純にガラスと呼んでいました。
1960年代
沖縄のガラス工芸が注目されるようになったのは、
戦後、沖縄に駐留するアメリカ軍人が
土産品として注目するようになってから。
アメリカ兵やその家族たちは、
雑誌の切り抜きなどを工場に持ち込み
「これと同じようなものを作ってほしい」とオーダーしたのだとか。
その名残りとして、コップなどのサイズは、今もインチ表示されています。
当時は、アメリカ兵が飲んだコーラーの空き瓶などを利用した再生ガラスが主流。
ガラスに気泡が混じってしまい、
本土では不良品として扱われた時期もあったそうです。
その後、民芸ブームにのり、ガラスづくりは続けられていたものの
まだ、この頃も、沖縄のガラスと呼ばれていたそうです。
1970年代
沖縄の本土復帰と同時に、ガラスの原料が手に入るようになり、
この頃から、赤いガラスが作られるようになりました。
1980年代
沖縄のガラスを後世に残すためにと、
職人たちが集い、組合を作ることなったのが、1983年。
組合名は、琉球ガラス工芸協業組合。
この頃から、沖縄のガラスは、琉球ガラスへと名称が変わっていったそうです。
1990年代
現代の名工のひとり、稲嶺盛吉氏は、
不良品といわれた気泡を生かし、泡ガラスを考え出したり、
原料に備長炭や米ぬか、コーヒーの搾かす、カレー粉などを入れるなど、
ガラス界の異端児とも言われています。
2000年代
そんな稲嶺氏は、再生ガラスで難しいと言われている、赤の再現の挑戦。
そして、完成したのが「紅珊瑚」。
このコップを見せていただいときの、稲嶺氏のうれしそうな顔。
まるで無邪気な子供のようでした。
世界の数々の賞に輝き、大御所とか、大先生とか称されていますが、
その素顔は、心配り、気配り上手なおじさん。
氏の個展パーティーのとき、隠れるように、いちばん隅っこ座り、
「こういう華々しい席は苦手」と笑っていた稲嶺氏。
60歳半ばを過ぎた今もガラスを吹いている、現役のガラス屋です。
沖縄デジタルアーカイブス「琉球ガラス」
http://www.wonder-okinawa.jp/009/